空想スリランカの歴史と旅

      (裸足が心地よい国)

                尾崎律夫

はじめに

 四年前、たしか我々がインドに旅行のあと、次回はスリランカに行こう、と約束した。しかし、スリランカ計画はそのつど障害のニュースが来て迷いが残り、毎度実

現しなかった。バイアグラのお試しみたいである。

そうなると絵に描いたバイアグラで話題にはあがっても具体化に至らなかった。スリランカ行きは、ついに特別なことなく去年の年末を迎えた。

 二千四年十二月二六日は世界の人たちを震撼させた悲劇の日となった。スリランカは巨大な津波の襲来に遭った。インターネットのニュースは時々刻々と死者の数と災害の拡大を報

じていた。誰もがご存知の通りである。

 我々はそのスリランカを二月に訪れた。わずかな救いは大津波をきっかけにスリランカが地球のどこにあるのか、その存在感が地球規模で知られるようになったことだ。

 私は実際、現地に行くまでスリランカってドコランカなどと無駄を叩いていたほどだ。大津波のニュースで地図を理解できた。

 この大破局時の訪問を決定すると、周りの人たちから質問が飛んできた。多くは、何でいまスリランカに行くんですか、と。  

まわりの質問を鞭のように感じた。

私は、質問自体は歓迎する。しかしちょっとはストレートコーヒーだけでなくクリームをいれた形容で質問して頂きたかった。

 それだから質問者に私は言葉では答えなかった。代わりに私の自律神経がスパイダーマンのように眠りから覚めて答えてくれた。

 「我々の訪問を待っている人たちがいるから、行ってくる」と。

 

 旅は旅をするうちに必ずそこの歴史を知らされる。この一文はスリランカをわずかしか知らない日本人のために、スリランカの「歴史」について私の奇想天外な空想をブレンドして遊

び書きした。まさかスリランカの人がこれを読むことはあり得ない、と思いながら。

テキスト ボックス:  南インドとスリランカ

一、 上代の伝説(仏教の伝来)

 いまからざっと二千三百年前である。北インド、マウリヤ王国に勇猛なアショーカ王がいた。異民族との攻防の時代で殺戮と無数の難民が何年も続いた。諸国平定のあと、民族の再興

と平和を願って王は仏教に帰依し、仏陀の教えを立法として諸国の岩盤に刻印させ、慈悲と徳をもって諸国を治めた。

アショーカ王は紀元前二四七年六月。息子マヒンダーをスリランカに派遣した。釈迦牟尼の教えに従い、信仰を知らしめるためである。マヒンダーは釈迦がブッダガヤで冥想した場所

に茂る菩提樹の分け木と教典を携えてインド亜大陸を南下し、海峡を渡り、恐らく陸行百日水行数日でスリランカに到達した。

 そのころスリランカはすでにシンハラ族が定住していた土地である。シンハラの王と民は山の神デーヴァと共に自然の営みのまま生活をしていた。シンハラ族のティッサ王はデーヴァ

神に一族の繁栄と安全を請願することが仕事であり責任があった。いわばティッサ王はシンハラカンパニーの社長である。

デーヴァ神はこれを聴き入れ、あるとき自ら鹿の姿に変身して鹿狩りに来たティッサ王の一隊をマヒンダーに引き合わせるため森の奥に誘導した。王の一行がたどり着いた場所には黄

色い袈裟をまとう尊者マヒンダーと傍らに妹のサンガミッタが従者とともに休息していた。夕刻に至って仏陀の教える「法」を知りたいと思う王はマヒンダーと問答を始めた。

 

王は問う、

尊者よ、人が生きていることは死滅したものと同一でありますか、あるいは異なったものでありますか。

 尊者は答えた、

それは同一でもなく、また異なったものでもありません。

 譬えを述べて下さい。

王よ、あなたはかつて幼く若く愛らしくしておられた時のあなたと、今の成人されたあなたとは、同一人ですか

  尊者よ、そうではありません。かつて幼く若く愛らしくしていた時のわたくしといまの成人したわたくしとは異なったものです。

 尊者は答えた、

王よ、あなたが胎児の時の母と幼少の時の母と成人した時の母とは、それぞれ別異なのでしょうか。 技術を学ぶ者とすでに学び終えた者とは別の者なのでしょうか。また悪い行為をな

す者と刑罰により手足を断たれる者とは別のものなのでしょうか。

 尊者よ、そうではありません。

 尊者は答えた、

王よ、わたし自身はかつて幼く若く愛らしかったが、そのわたしはいま成人しています。実にこの身体に依存して、これらのすべての状態が一つに摂せられているのです。

 譬えをのべてください。

王よ、たとえば或る人が灯火を点じた場合に、それは夜通し燃えるでしょうか。

 尊者よ、そうです。夜通し燃えるでしょう。

 尊者は答えた、

王よ、それでは初更の焔と中更の焔と後更の焔とはそれぞれ別のものなのでしょうか

 尊者よ、そうではありません。同一の灯火に依存して焔は夜通し燃え続けるのです

 尊者は答えた、

王よ、事象の連続は個体が継続するのです。生ずるものと滅びるものとは別のものではあるが、後者が前のものではないかの如く、また他のものでもないかの如く言わば同時のものとし

て継続しているのです。こういう訳で、それは同ならず異ならざるものとして、最後の意識に摂せられるに至るのです。

 さらに、譬えをのべてください。

王よ、たとえば搾り出された牛乳がしばらくすると生酥(ヨーグルト)に転じ、生酥から酪(バター)になり、酪から醍醐(チーズ)に転ずるでありましょうが、もし牛乳は酪と同一で

あり、生酥と同一であり、醍醐と同一である、と語る人があるなら、王よ、その人は、正しいことを語っているでしょうか。

 尊者よ、そうではありません。それに依存して、他のものが生じたのです。

 尊者は答えた、

王よ、事象の連続はそれと同様に継続するのです。生まれるものと滅びるものとは別のものではあるが、前のものではないかの如

く、また後のものでもないかの如くにいわば同時のものとして継続しているのです。こういう訳で、それは同ならず異ならざるも

のとして最後の意識に摂せられるに至るのです。

 

 尊者マヒンダーよ、もっともである。

ティッサ王は理解した。あたりの時は満ち、西の空に低く大きな満月の光が差し、静寂に包まれた。「そのとき歴史は動いた」のだ。

 シンハラ王と従者四千名はまもなく釈迦牟尼の教えに帰依した。そして新たな聖地にはブッダガヤ直参の菩提樹が分け木され、ミヒンタレーの樹と呼ばれるようになった。尊者の妹、

サンガミッタは言うまでもなくティッサ王の妃のひとりとなった。

 現代、スリランカでは満月の日は国民の休日である。特に六月の満月の休日は、だいじな祝日としてたいへん賑わうそうであるがその源流には、かくの如き事象があった。

めでたし、めでたし。

二、 古代の伝説(仏教以前)

 古代西域には霊獣信仰があった。ことにライオンは王の律令を守護する象徴的な動物として信仰された。

 ライオンは日本では獅子、沖縄=シーサー、中国=シーツィ、インドネシア=シンガ、サンスクリット=シンハ。そしてスリランカではシンハラ=獅子の子孫、と云われスリランカの

国旗には中央に大きな獅子が描かれている。


しかし現代スリランカには、お世話になったノエルさんのような事業欲に燃える、獅子的経営者はいるが本物のライオンは動物園以外にはいない。このこと

はシンハラ族がよそ、たぶん大陸から来たアーリア族であることを物語っている。そのルーツは北インドからスリランカに移住し、前七世紀には先住民の夜叉

族(やしゃぞく)を支配下に置いて徐々にシンハラ社会をつくりはじめた人々である。

 紀元前四八三年に至り、シンハラの王子ヴィジャヤが七〇〇人の従者を連れて渡来し、タンパパンニを都と定めシンハラ王朝政府を建てた。

古代西域の霊獣信仰のもとでヴァンガ国の王女と雄ライオン(シンハ)との間に兄妹が生まれた。猛獣が父であるから子供はきっと象のガネーシャのような

半神半獣の姿であったはずだ。半神半獣の父母のもとでヴィジャヤは人間の姿で誕生し成長したのである。想像すら及ばない。

猛獣との獣婚と兄妹婚による相姦のためと想像するがヴィジャヤの性質は粗暴無比であった。シバ神のように破壊を好んだ。

ついにヴァンガ国では収まらず、従者とともにスリランカに新天地を求めて移動した。移住先ではことごとく周辺部族に勝る力量をもって先住民を服従させ

た。

ヴィジャヤのはじめの妃は服従した夜叉族の女王クウェーニを娶り、子を授かった。これがヴェッダ族の系譜となった。

次の妃は南インド、パーンテイヤからタミール族の妃を迎えたが、はじめは子を授からなかった。三番目の妃は南インドの王女であった。彼女はカースト制度を踏み外した愛に落ち、

誤って殺人を犯し、流罪となってスリランカに漂着したところをヴィジャヤに助けられた。ところが容姿すぐれて端麗、美女であったため、ヴィジャヤの気を引いたので

妃となって子を授かった。ヴィジャヤを囲む妃たちの三角関係が形成され、多くの子孫を繁栄させた。このとき以来ヴィジャヤはシンハラの祖となった。これがシンハラ族発祥の系譜

である。 

ヴィジャヤ王は文書と経典の記録文字をパーリ語と定め、日常生活はシンハラ語を使うと定め、今日に至っている。

めでたし、めでたし。

 

三、 太古

 百年前、ドイツの気象学者ウェゲナーの主張によると、現代の大陸分布は、古生代にあった超大陸パンゲアが分裂して移動した結果であると考えた。

 たとえば海を渡ることができない象がインドとスリランカの両方に棲息するという事実が大陸移動によって説明可能であると主張した。 しかし、大陸

を分離、移動させる原動力が何なのか、不明であったことから反論をうけ、大陸移動説は忘れ去られてしまったのである。

 ところが現代になって動的地球観であるプレートテクトニクスの構造解析によって大陸移動説は劇的に復活した。この考えは、地球温暖化による海洋

拡大説とともに太古の時代スリランカはインド亜大陸の一部であったものが分離したと考えてよいのである。

 地図を見ればスリランカの島の外形からして、いかにもインド亜大陸から引きちぎられた形状をしている。横の形はあり得ないのである。

テキスト ボックス:  不自然な形のスリランカ 

 

 スリランカは北海道よりも小さな国である。北海道の本屋さんで販売する世界地図は地球の中心に北海道が印刷されている、といったら誰もがビックリしてしまう。まだ見たことがな

い。しかしスリランカで販売されている世界地図はスリランカが地球の中

心、地図のド真ん中に印刷されている。それが印象的だ。

 スリランカがランカ(島)となった後、初めは夜叉族や龍族と云われる太古の先住民が居住していた。彼らはオーストラリア大陸またはインドネシアから徐々にインド洋を千キロ、島

伝いに横断航海をしたのち生き残った者だけが上陸して移住したのである。

大津波なら半日でいとも簡単にインド洋を渡ってしまうが、人類が荒れ狂うインド洋を千キロ渡るには技術と経験が必要だ。龍族は名前からしても海洋民族であった可能性が高い。

その後、鉄器が大陸から伝来すると鉄器は武器であり工具であるから焼畑式農耕の組織社会が生れるようになる。農耕組織社会は海洋民族を圧倒したものの、わずかに共存できた人た

ちだけが地域で今日まで生存していると聞いている。

めでたし、めでたし。

 

4、          シギリヤ、世界遺産の伝説

シギリヤという場所を知っているだろうか。スリランカのほぼ中央だ。奇っ怪な遺跡シギリヤロックがあるので有名になった。

二千二年四月十二日は日本・スリランカ国交樹立五十周年記念日で、日本の財務省印刷局はシギリヤロックを背景にして優雅な宮廷美女を描いた八十円記

念切手を発行した。カラー印刷がとてもきれいに仕上がっている。しかも宮廷美女は豊かなオッパイを丸出しのままである。切手ではあるが、みやびやかでなか

なか上品な色っぽさである。いま郵便局では販売を終了し趣味の切手店で購入すると十枚セット八百円表示のシートが千五百円くらいの値段だけれども簡単に買

える。

二千一年、スリランカ政府は新百ルピー紙幣を発行した。お札の裏の構図に三つの絵が描かれている。シギリヤロック、茶摘み、そして鸚鵡である。シギリヤ

は切手にも紙幣にも使われるほど世

界遺産に登録され、雄大で独特な風景である。

 

 

 

 

 

 

海外旅行では滞在中、その国の紙幣を使うことになる。スリランカルピーは現在たまたま一ルピー

一円であるため換算の便利さは単純

実である。しかし日本との物価が十倍以上違うため百ルピーは現地では千円の感覚と思う。ところが

おサツは徹底してボロボロ、不潔な状態になっていて気持ちがよろしくない。スリ

ランカのイメージアップはきれいな紙幣からはじめてもらいたい、と財務大臣殿にこの紙面を通して

お願いをする。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はじめにシギリヤの風景写真を見ていただきたい。これがシギリヤロックである。この景観を音楽で現すならマー

ラーの交響曲第一番第四楽章だ。

 周辺との標高差二百米の山というか大岩は、五十平方キロに渡る森林と平原のド真ん中に忽然とそびえる。この姿

の舞台イメージは日本にあり得ない。この地に来てみないと我が目を疑う偉容は分からない。

 歴史ではスリランカがインド亜大陸に侵略戦争を仕掛けた記録はない。しかし二千年にわたり、絶えずインドから


の侵略と国内の覇権争いが続いている。その原因は何であろうか。

大陸との海峡はおよそ三十キロメートル、近い。楽に渡ることができる。食料や気候、自然の恵みが豊富である。階級社会と複数民族が同居している。この三点が思い当たる。覇権争

いが最もドラマティックに繰り広げられた舞台がシギリヤであった。

 

ざっと今から千五百五十年前、日本では仁徳天皇の時代、スリランカは大陸からのタミール人が支配していた。その支配が三十年間も続いた。長い支配は力が緩む。おまけにヒンドゥ

教は禁欲主義ではない。とくにスリランカのヤシ酒は旨くて存分に酔わせてくれる。 

ヤシ酒を造るには椰子の幹にナイフで傷をつけ樹液がしたたり落ちるのを器に受ける。これを発酵させるのだ。古来ヤシ酒は密かに男女で飲む媚酒媚薬である。同時に飲み干すと抱き

合って寝てしまう効き目があると言われる。子作りの妙薬だ。ヒンドゥ教の儀式の中にあったといわれる。

こうして宮殿や兵の士気が低下してきたときにシンハラ族の族長ダートセーナが頭角を現した。ダートセーナはある晩タミール族が祝うシヴァ神の祭りが果てた闇夜に、反乱を起こし

た。

タミール人の支配に攻撃を加え降伏させたあと、かつて捕らえられたシンハラの捕虜一万二千名を取り戻し、その二倍のタミール人を捕らえ奴隷とした。

ダートセーナはこうしてシンハラの王となり、ただちに奴隷を使役して乾燥地帯に大きな貯水池と運河を作らせた。荒地は立派な農地となり貯水池と運河で作物が増えた。ほぼ十五年

でダートセーナ王のスリランカは大いに繁栄した。

 ダートセーナ王は、三人の子供が授かった。上の男子はキャッサパ、下は異母弟のマガラーナ、そして娘がいた。娘は従兄弟であるミガーラに嫁いだ。キャッサパの母は平民であり、

弟マガラーナの母は皇族の出であった。

成人して兄キャッサパは知的というより活動的、弟マガラーナは活動的というより知的な男になった。ダートセーナ王はどちらの息子に王権を継がせようか、思案した。そこで軍の司

令官となっていたミガーラを傍に呼び、策を練った。彼はまず王権の継承が決まるまで争いとならぬよう王家の財宝を密かに隠して置くがよろしい、しかもタミールの逆襲を避けられる

安全な場所に、と進言した。

さっそくダートセーナは王家の財宝を密かに移し、広大な貯水池の水底深く沈めてしまった。隠した場所は六月の満月の日に月が頂点に昇り、その影が消える場所であった。王以外に

その場所を解明できるものは存在しなかった。

数年後、財宝の噂がキャッサパに伝わり、キャッサパは自分が王権を継いで、自分の理想の宮殿を建てる資金にしたい、とダートセーナ王に問いただした。財宝は何処にあるのか、と。

王は宮殿の見晴台に立ち、広大な貯水池と運河に向かって両手広げ、二人の息子を試すように「これが我が財宝のすべてである。」と答えた。恵みを産み出す財産を守れ、という王の

言葉に知力が及ばないキャッサパはこのとき、自分の出生が低いために父ダートセーナ王は自分をあきらめさせて弟マガラーナに王権を与えるのではないか、という不安を感じた。キャ

ッサパは兵士を我が支配下に置くため直ちにミガーラ司令官を捕らえ、財宝を探したが発見できなかった。

キャッサパの空想は天国に現世の宮殿を創りだすことであった。そこに民と富が集まりシンハラ族の永遠の存在になると信じていた。宮殿造りには王権と財産がどうしても欠かせない。

与えられないなら王権を奪うしかなく、弟マガラーナを直ちに国外追放し、ダートセーナの一族は宮殿の一部に軟禁した。キャッサパは財宝がみつからないまま数万の奴隷を動かして

天国の宮殿建設を着手させた。四七七年のことである。

新しい宮殿は空中に浮かんでなければならない。下界と切り離され、天国のように容易には届かない場所が必要だ。それが叶うところは世界でただ一箇所。自然が用意してくれた地上

二百メートルの天上、シギリヤの巨大ロックであった。ダートセーナのアヌラダープラ宮殿から南五十キロの距離である。

あたらしい宇宙をこしらえるため、思う限りの工夫を凝らした。美術、芸術、技術、建築工法は、環境調和と建設に最高の役割を果たした。四八四年シンハラの象徴である巨大なライ

オンが宮殿の入口に建造された。スフィンクスのようである。このときにキャッサパはシギリヤに都を遷都させた。四八四年のことである。

宮殿は十五年の工期で完成する予定であった。しかし遷都して着工十年。資金が次第に細り、天上の宮殿はあとわずかを残して完成に至らない。キャッサパは財宝の隠し場所を明かさ

ない先王ダートセーナをついに殺害した。財宝のために父親を殺してしまい、彼の戻り道は絶たれたのである。

町から商人、職人が去りシンハラの国勢は急速に衰退した。多くの奴隷はタミール地方に逃亡した。まもなくタミール族はシンハラの衰退を聞き及び、弟マガラーナを伴ってシギリヤ

に二万の兵を組んで侵攻してきた。四九五年のことである。

戦争となった。シギリヤ地方は潅木と沼地が多い。象は無敵である。歩兵も武器も近くに寄りつけない。初戦でキャッサパの軍と象部隊は地の利を得てタミール兵を撃退した。さらに

北上し歩兵が先行して追い上げて行き、象部隊が続いた。

途中、湿地帯に差しかかった。歩兵は身軽なので突き進んだ。しかし象部隊は沼地を避けて折り返すような形で移動せざるを得なかった。

これを振り返って見た歩兵はキャッサパが歩兵から離れて退却しているように見えた。指揮官を見失うと戦場が混乱する。歩兵は四方に撤退しはじめた。将校の象が方向を失い湿地に

足を取られる。部隊長は象から転落や離脱をした。キャッサパは象を失い、従者もなく一人の歩兵のようだ。キャッサパを見分けられるのは追放された弟マガラーナだけである。夜どお

し退却したキャッサパは朝日が昇るころ完成直前のシギリヤ天上宮殿に命からがら戻った。すでに宮殿はだれも人の気配がない。

このときからの三日間だけが、キャッサパが純粋に体験した天国の宮殿生活であった。宮殿は日の出の雲海の上に浮かび、夜半は天空の限りない星と星座に吸い寄せられて宇宙の旅を

した。

三日目の夕刻にタミール軍の弟マガラーナが兵士とともに宮殿によじ登りキャッサパを発見した。そして罪を確かめる。

ボロボロになったキャッサパを兵士は遠巻きにして構えた。渡された短剣を掴み自ら絶壁の上に立った。満月が登り始める。キャッサパは、顔を満月に向けあごを突き出すと両眼に満

月が映った。光る短剣を両手でにぎり絞め、切っ先を咽に当て、心臓をめがけて垂直に剣を引き降ろした。血が吹き上げ、その瞬間身体は崩れるように、はるか深い崖下にゆっくりと落

下していった。満月はやや明るさを増して岩に残るキャッサパの血潮を映した。

ダートセーナの財宝はいまだに誰にも見つかっていない。水中深く眠りについている。未完成のシギリヤ宮殿はそのまま歴史から取り残され、都は再びアヌラダープラに遷都された。

弟マガラーナは、タミールから離れ仏教僧侶となって出家した。シギリヤの建造物はその後数百年間、僧侶の修験場となった。

キャッサパの不幸な生涯と夢が、はからずも我々に空前の世界的歴史遺産を贈ってくれた。

これはシェイクスピアあるいは歌舞伎の作品に並ぶ因果応報の叙事詩であり、この世界には現象はあるが実体はない、という証拠を示している。 色即是空。

 

五、 セノック社、ノエル社長について

 

スリランカではセノック社のノエル社長とジェラード専務が我々に密着して案内をしていただいた。セノック社は旅行社でもあるし、コベルコ建機の現地総代理店でもある。

一週間の旅行の終わりにセノック社を訪問したとき、ノエル社長が我々にプリントをくれた。会社創業二十五周年記念日の場で社員、関係者にノエルさんがスピーチした原稿であった。

ノエルさんは素晴らしい人間だ。仕事、気配り、センス、あらゆる点でビジネスのお手本。スリランカビジネス界のスーパーマンのようだと、感じた。彼を知るにはそのスピーチ原稿

を読むと分かりやすい。翻訳する。

 

 

 

 

 

 

 

 


友人の皆さん今晩は。

 

二十五年というのは長い歳月です。四分の一世紀あれば何でも変えることできます。

わたしのワイフの誕生日に、どんなプレゼントが欲しいかって聞いたのです。

彼女は「もう一度、十代に戻りたい」といいました。で、彼女をテーマパークに連れて行ってやりました。そしてテーマパークのあらゆる乗り物で遊んだのです。

五時間後、彼女はフラフラ、頭はグラグラ、胃袋は上がったり下がったり。

一緒にマクドナルドに入ってビッグマック、フレンチフライ、それからストロベリーシェイク。しまいにはポップコーン、ソーダ、お菓子を食べ放題。

やっとの事でよろけながら、家に帰ったトタン、ベッドにつぶれてしまったのです。

わたしは前後を悟ったつもりで、妻に囁きました。「ね、奥さん、思いっきり十代になった感想は如何?」

すると奥さんは片目をあけて「ホントは十代のドレスサイズに戻りたいって言おうとしていたのに」って強がりを言っていました。

(ここでちょっと間を置く)

ご出席の奥様方に教えましょう。最近、腹が出てきたご主人が、二十八の頃のウエストラインに戻りたいという夢みたいな願望があるとすれば、逆にご主人の誕生日にこの話をしてやって下さい。

 

セノック社、成功の二十五周年の栄えある節目を今宵、一同に集まってお祝いできることはほんとうに素晴らしいことだと思います。

スリムな妻が急に肥えてしまったように我々は急成長しました。しかし彼女と違うところは、セノック社は体重超過でも背伸びし過ぎでもありません。まだサイズIのカッコよさを保っています。

 

 二十五年前を振り返ると、当時は何にもなかったので、いまも時々びっくりします。何にでも「手を付けてやってみる」ことが最初でした。我々には資本金はなし、援助なし、信用もありませんでした。ただ我々はヴィジョンと意欲をもって活動しました。

 千九百七十九年は思い出深い年です。スリランカは、抑圧的封鎖経済から、今後は企業家が頑張れる解放経済のシステムに移行しました。これは新たな希望と夢の夜明けであり、変化への追い風の吹き始めです。そして我々セノックはこの絶好の機会をつかみました。

 しかし現実の仕事は厳しく、骨が折れる苦労の連続でした。ポケットは空っぽ、弟のジョエルと私は道を、急ぎ足で歩き、日程表を作り、航空券の買い付けと販売からやりました。そのころ、事務所はどこにも持てません。どう表現しても、とにかくちっぽけな旅行代理店でした。我々はいつも動きまわったのです。

 そして、皆さんがいま親しんでいるセノックの組織になるまで我々は営業活動して来ました。

 私の弟、ジョエルの計り知れない貢献に、ここで改めて感謝をいたします。

 彼の緻密な財務処理、賢い意思決定のおかげでセノックは成功する道を走って来ることができました。

 ジョエル、ありがとう。仕事の成果をとおして我々はヴィジョンの実現に向けてきた。ありがとう。

もうひとり、セノックの専務であり、パートナーである、ジェラード フェルナンドに私は特に感謝申し上げたい。彼はセノックと私にとって特別な存在だからです。彼は私の右腕です。彼の仕事への対応は非の打ち所がありません。

彼の広い視野と商才は大変貴重です。とくに一番言っておきたいジェラードの真価は、長年にわたる彼の指導力と風格です。

ありがとう ジェラード 良き仲間です。

わたしがお礼を云いたい人が、まだいます。わたしの善き分身で親友、わがワイフ、セイーダです。

「セイーダ、君の忍耐力、包容力それに理解力に、いつも驚嘆している。私がセノックの件を君に話さなければならない時が何度もあったけれど君はいつも理解してわかってくれた。」

 

ありがとう、セノックの全社員に、ありがとう。

 

今夜、会場を見渡して、世界中から、お取引のお客様とお会いしています。我々は皆さんの代理店として、また国内外で皆さんの成功した事業の一部を担った組織として誇りを持っています。皆さんと共に働く機会を得て感謝いたします。そして今後とも末永く、みなさんと協力して事業を成功させたいと思います。

地元の産業界に対し、パートナーであり、また必要な機材を供給していただき感謝します。

過去二十五年にわたるお取引のお客様および新たに、我々のサービスを受けているお客様に対し深甚なる感謝をいたします。

皆様のご指導に感謝し、お役に立てることを名誉に思います。

 

なにが未来にあるのか

未来は、皆さんの意思決定と我々の仕事する力にかかっています。

セノック社は前方になにがあるのか、まったく楽観的です。

 強力なヴィジョン、積極的見通し、ゆるぎない意思決定そして専心的な仕事が、我々を未来に運んでくれるでしょう。

そして会場の皆さん、皆さんには我々が仲間としてついています。 

創業して二十五が年経ちました、もう大人になりました。しかし創業当初と変わらずハングリーです。他に負けない生き残りをかけてドライブ致します。

 

それでは、どうかこれからの時間をお楽しみください。今夜、ウエストラインがはち切れそうになっても気にしないで下さい。

最後に、大事なことは皆さんが若々しく、からだの中から活気が溢れ、時の流れはまったく気にしない事です。

ではパーティを始めましょう。

       (コマーシャルスピーチの部分は省略)

 

ノエル社長のプレゼンテイションは、自社への思い、顧客への感謝、そして社員への愛情表現にあふれている。

彼の原稿はポリシーがハッキリしているので迷わず結構楽しく翻訳できた。こんな投げ掛け方がスリランカのビジネススタイルなのか。我々が学ぶところ多く、すごく評価したい。

仮に、我が社が創業記念日をいつか挙行するとき、このレベルで出来ますか、と言われると余り自信がない。でもこうしたい。

わたしは個人的にもノエルさんが大好きになった。一週間、行動を共にして彼を見ていると、

事象に焦点をあてる(誕生パーティ 首相会談 ヘリ シギリヤ)

表現がうまい(上品な英国英語 outlook excel partnerを多用)

先を予測する(空軍ヘリのチャーター交渉)

交際は積極的(自社経営のレストランで接待パーティをする)

急ぐときは急ぐ(ゴルフをハーフ一時間四〇分で廻った)

余裕があればゆっくりやる(食事 飲み会)

仕事を大事にする(まず自社ビジネスの紹介とセールス)

ケチらない(ヘリ運賃 紅茶セット 夕食会やパーティ)

奥さんを大事にする(前ページ掲載のとおり)

 

島田団長はノエルさんという仕事仲間ができたことを縁に、公私とも末永く、彼とのコミュニケーションを大切にしていただきたい、と願うばかりである。私にとってもノエルさんを知ったことはスリランカでの第一の印象と収穫であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

おわりに

 

飄逸なわたしはスリランカを訪問するまでシンハラ人とか上座部仏教という言葉や意味さえ知りませんでした。

帰国して、調べるうちにスリランカが少し分かるようになり、あと半分は、空想しながら気ままにスリランカの歴史をそれらしくでっちあげた、ということを条件にお読み下さい。

読み物の三原則、「楽しくてカッコよくておもしろい」というニーズにお応えできず、難解で、反三原則的な作文になってしまいました。ご用捨をお願いします。

旅行をとおして、現地でお世話になったノエルさん、ジェラードさんほか同行の皆さまに、ひたすら感謝致します。

島田博夫団長には大小の事局で進路を決めていただき、お世話になりました。有り難うございました。

 

 

参考文献

一、辛島 昇 著「南インド」 山川出版社 一九九九年

二、インターネットの各種情報たとえば

http://www.embassy-avenue.jp/srilanka など

三、Microsoft (R) Encarta (R) Reference Library 2005.

参考に、気に入っている写真を添付します。